はえてますよ、ドラキュラさん。

 


    1

「いいか、勘違いするなよ。人間(きさまら)など吸血鬼(われら)の食料に過ぎないんだからな」
「──はぁ」
 吸血鬼の少女の言葉に、士郎は聴いているのかいないのか、適当な相槌を打った。彼は、口を真一文字に結び、若干赤らめた顔を緊張させて、自分の膝の上を気にしていた。
 ソファーに腰掛ける彼の膝に、当の吸血鬼の少女の頭が乗っかっていた。士郎を隅に座らせ、自分は悠々と足を伸ばしソファーに背中を預けている。美しく艶やかなブラウンの長髪が、士郎のジーンズやソファーの上に幾つもの支流を作っていた。
 体中の神経が一点に集中しているようだった。髪の一本一本の感覚すら掴めるのでは、と錯覚しそうになる。少女の体温とたまに身じろぎする衣擦れが、気恥ずかしさと相まって非常にこそばゆかった。相手が尋常ならざる人外の存在であると知りつつも、自分の動悸が聴こえるほどに高鳴っているのを、士郎は自覚せざるを得なかった。
「吸血鬼は人間より遥かに優れた存在なんだ。私にこうやって触れられることを、光栄に思え」
「……はぁ」
 その少女の頭の頭頂部に、ちょこんと三角形の突起が二つ並んでいた。髪と同じ色の細かい毛に覆われ、忙しなくぴくぴくと動いている。
 犬の耳である。更に正確に言うなら、ポメラニアンという犬種の耳である。士郎は今からこの彼女の犬耳を掃除して差し上げねばならないのだ。
 室内犬の耳はとてもデリケートで、そこから病気にかかる事が多い。士郎は日頃から小まめに愛犬の耳を散歩帰りに拭いてやっており、その扱いにも慣れている。だが、例え同じ犬耳であろうと、士郎は女の子の耳については掃除はおろか、触ったこともない。
「どうした、早くしろ。何を怖気づいている」
「いや、その、どうもやりずらいというか……」
 少女の赤い瞳が怪訝そうに揺れる。
 膝枕をしながら、お互いの息がかかりそうな距離で。誰かに見られでもしたら、恥ずかしい所の話ではない。
 恥ずかしいと思っているのは自分だけではないらしく、少女の横顔も何かを我慢しているかのように歯痒そうだ。厳しく強張った口調も、自分のプライドを保つ為に絞り出しているに過ぎない。
 伝説の大吸血鬼ドラキュラの血の末裔、由緒正しき闇の姫君である普段のドラクロア・ド・ラキュラからは、考えもつかない姿だった。持ち前のプライドの高さから、彼女は家畜同然と見下す人間と、今まで会話すらした事がなかったらしい。自分の身を預けて、耳掃除をさせるなどもってのほかだ。
 だが、今の彼女はある欲求に逆らえなくなっている。それが信条を捻じ曲げる事になっても、心と体が反応してしまうのだ。
 今もその赤い双眸に、期待と屈辱を複雑に織り交ぜて、士郎の両手の行く先を見守っている。
 視線を逸らして壁時計を見れば、時計の短針は六時を過ぎていた。年の瀬の黄昏は短く、窓の外はすっかり暗くなっている。
 いつまでも、こうしてはいられない。グズグズしていると先輩が帰って来てしまうではないか。
「……クロア、それじゃ、やるよ?」
 用意していたウェットティッシュを手に、士郎はクロアの耳を覗き込んだ。士郎の手を目前にして、彼女はびくっと反応し瞼を閉じる。
 「まず右耳から」と口にし、士郎は出来るだけ優しく、そっとクロアの右耳に触った。左手で耳の裏側を持ち、右手のティッシュで撫でるように内側を拭いて行く。
「……ん」
 クロアは目を閉じたまま、小さく息を漏らした。長い睫毛が震え、透き通るように白い頬が、ゆっくりと紅潮していく。
「……もっと強くしていい」
「……は?」
「あまり優しすぎると逆にくすぐったいんだ。……士郎がいつも犬にしていた通りにして欲しい」
「そ、そっか」
 若干声を上ずらせて、士郎は頷いた。いつも意識せずに力加減をしていた為、改めてそう言われても良く思い出せない。試しに毛の下の皮膚まで届くように、若干力を込めてみる。
「……」
「……どう?」
「ん……。……悪くはない」
 不機嫌そうに、ポツリと吸血鬼の少女が呟いた。声の割には、随分表情はリラックスしている様に見える。士郎は安堵と共に、少し緊張の糸を緩ませた。
 もともと、時間のかかる作業ではない。一分もかからない内に右耳の掃除が完了した。ほとんどティッシュは汚れなかったが一応交換し、同じ手際で左耳も綺麗にしていく。
「──はい、終ったよ、クロア」
 左耳もあっと言う間に終らせて、士郎はほっと一息ついた。難題を片付けたかのように、気分は清々しい。
「…………」
 だが、クロアは士郎の声が聞こえていないかのように彼の膝から頭をどかそうとしない。寝ているのかと思ったが、どこか憮然とした様子で、じっと何かを待っているようだった。
 まさか、と思わず士郎は唾を飲む。
 いつも愛犬の耳掃除をした後は、じっと大人しくしていたご褒美に、ひとしきり頭を撫でてやっていた。彼女の無言の圧力は、いつものはまだか、と要求しているとしか思えない。
 士郎は少し躊躇ってから、ぽんっとクロアの額に手をあてた。さらさらと髪の毛を指で払いながら、『いいこいいこ』してやる。
 彼女はそれを素直に受け入れて、満足そうに「フン」と鼻を鳴らした。
 それから、二人とも何を会話を交わさずにただ時間だけが流れた。止めるタイミングを掴めず、いい加減士郎の右腕が重くなって来た頃、急にクロアが目を見開き、飛び起きた。
「い、今のは無しだ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ。
「今のは私がしろと言ったんじゃないからな! 貴様が勝手にやっただけだ!」
 本来の彼女にとって、人間に頭を撫でられるなど屈辱以外の何物でもない。それを受け入れるどころか、自分からせっついたのだ。そんな事実を認めるわけには いかないらしい。
「そのわりには随分長くじっとしてた気が」
「ち、違う! 少し気持ち良くなってまどろんでいただけだ!」
「気持ち良くなった、って言っちゃってるけど……」
「ぐ……」
 墓穴を掘り、唇をきゅっと噛んでクロアが悔しそうに言う。
「貴様の飼い犬の血が悪いのだ! おかげで吸血鬼としての誇りがズタズタだ……」
「まぁまぁ」
 士郎が、再びクロアの頭を撫でると、険しかった彼女の表情が急に和らいだ。まるでスイッチでも切れたかのように、ふにゃっと眉と頬の力が抜ける。
「……面白い」
「私で遊ぶな!」
 怒ってみせるが、やはり士郎の手には逆らわない。クロアの言うとおり、彼女の中に流れる犬の血は、精神の相当深い所まで根差しているらしい。
 ──その実在は世界に公表されていないものの、吸血鬼の伝承は古くから多種多様に存在する。
 一般的に、彼女達は夜を渡り、月と共に歩む闇の住人とされている。その名の通り、人間の生き血を啜り、死に至らしめる怪物だ。
 吸血鬼が保有する能力も数多いが、その中に「獣化」というものがある。時に蝙蝠に、時に狼にその身をやつし、人間の目を欺く魔法のような能力だ。
 クロアが犬耳を生やしているのは、その能力を持て余し、こじらせた結果なのだ。
「これで尻尾も生えてたら完璧なんだけどなぁ……」
「そんな物生えてたまるか」
 士郎の呟きに、クロアは鋭く長い二本の犬歯をむき出しにして唸った。
「人間相手に尻尾を振るくらいなら、滅びた方がマシだ。もし、そんな姿になってみろ。あの変態がますます調子に乗るじゃないか」
「……変態って時宗先輩のこと?」
「そうだ。あの馬鹿は性質の悪い最低の怪物だ。昨日も私の体中……」
「こんな風に撫で回して」
「そう、いきなり胸や脚を、触り、出し……!?」
 突然クロアの背後から飛び出した二本の腕が、ぐわしぃ! と彼女の体を抱きしめた。
「と、時宗……、いつの間に!?」
 驚愕に顔を引き攣らせて振り返るクロアの目に、眼鏡をかけた青年のにこやかな顔が映る。
「ただいま、クロア。愛してる」
「何を言ってる、貴様は!? 離せ、や、め、ろ……!」
「いつもは俺が帰ったら逃げ出すのに、今日は待っててくれたんだな。ついに、俺の真心が伝わったということか」
「気配を殺して近づいただけだろうか!?」
 身をよじって逃げ出そうとするが、青年の腕はビクともしない。
「……玄関の音しませんでしたけど?」
「ん、ああ。あらかじめ開けっ放しにしておいた自分の部屋の窓から入った」
「完全に計画的じゃないですか……。それに先輩の部屋二階じゃ……」
「何回か侵入の練習はしたからな。意外と何とかなるもんだぞ?」
「はぁ……」
 士郎の疑問に、時宗は事も無げに答えた。
 時宗は、士郎と同じ高校に通う一つ上の先輩である。細身の長身で、優等生を絵に描いた様な、理知的で思慮深げな相貌で、眼鏡が似会う青年だ。
「何を雑談している!? 士郎、早くこの馬鹿を何とかしろ!」
 若干涙目になりかけているクロアに助けを求められて、士郎は溜息をついた。
「先輩、そろそろクロアも本気で嫌がってるみたいですし」
「無駄だ、士郎。俺達の愛の営みの邪魔は誰にもできん!」
「……晩飯抜きますよ?」
「続きは食べてからにしようか」
 士郎の脅しに、時宗はあっさり降伏した。解放されたクロアは脱兎の如く士郎の背中へと隠れる。
「く……。この忌々しい獣化が解けたら、必ず切り刻んで冥界の奈落に捨ててやるからな……。絶対殺す……」
「なるほど、死を持って二人は永遠に結ばれるってわけか。情熱的な告白だ」
「どんな解釈だ!?」
 悪戯されて激昂するクロアと、それを悠々と聞き流す悪戯する時宗。そして、それを仲裁する役目を担わされる士郎。
 いつの間にか、すっかりそんなポジションになってしまっていた。
「しかし、今日も寒いな。体も冷えたし、夕飯前だがコーヒーでも淹れてくるか」
「あ、それなら僕が」
 言いかけた士郎の服の裾を、クロアが引っ張った。見ると、クロアがふるふると首を振って「行くな、二人きりにするな」っと必死に訴えている。
「お前の料理の腕はまぁ認めるが、コーヒーの淹れ方はなってないからな。自分でやるよ」
「そ、そうですか? ああ、そういえば、先輩に小包が届いてましたよ? 小さいダンボールの」
「──そうか」
 おや、と士郎は一瞬違和感を感じた。急に時宗の声と表情が冷たくなったように見える。
「ナマモノって書いてあったので、冷蔵庫に入れてありますから」
「悪いな、ありがとう」
 短く言い残し、時宗はリビングから出て行った。バタバタと何故かやたらと急いた足音を立て、キッチンに向かっている。
「先輩は、ほんとにクロアの事が好きなんだなぁ……」
「迷惑だ」
 きっぱりと、士郎の背中で縮こまりながらクロアが吐き捨てた。
「今まで愚かな人間の男どもを虜にして来たが、自分の美貌が忌々しいと思ったのはこれが初めてだ……」
「愚痴と自慢が混ざってるけど」
「……うるさいな。貴様も良くあんな痴れ者を先輩だと敬えるものだ」
「ははは……」
 クロアの言葉に、士郎も乾いた笑い声を漏らすしかない。
 時宗は、学内での学力順位も常に上位をキープし、その癖運動神経も抜群に秀でているという、自己鍛錬に打ち込む寡黙で生真面目な性格だった。感情の多くを表に出さなかったが面倒見は良く、士郎の勉強も見ていたりしている。士郎もそんな彼を尊敬し、目標としていたりしたのだ、クロアが現れた一週間前までは。
「もう一週間か……」
 人間と吸血鬼の共生が初まってはや七日目。短期間で、自分の世界が目まぐるしく変化した気がする。
 士郎はソファーに座り直して、古びた天井を見上げた。
 今も、彼女に突然襲われた日の事ははっきりと覚えている。丁度こんな時間帯で、寒さの厳しい夕方だった。

 

 

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