SUMMON BRAVE

 時空を越え、この世界に産み落とされた黄金の輝きは、程なく彼と同じヒトガタの輪郭を形成した。
 言葉無く、ただ驚愕に打ちのめされ、彼は瞠目してその金光を見守った。
 好奇心に衝き動かされた、他愛ない気まぐれのはずだった。出鱈目な術式は起動すらせず、淡く儚い期待は溜息と共に吐き出されるはずだった。
 だが、召喚魔方陣は触媒を飲み込んで、伝説を再誕させつつあった。後悔が荒波と化して胸中を渦巻くが、最早手遅れであることは一目にして瞭然だった。
 曖昧だった奇跡の輪郭は、腕を成し、指を成して、今や宙空にはっきりとその姿を晒している。
 隔世の神気に中てられ、力の抜け落ちた彼の指から、古ぼけた手記が滑り落ちた。背を叩かれた手記が、力なくばさりと床に広がる。
 彼を伝説の再演へと導いた魔書は、彼の奇跡をこう呼称して賛美を捧げていた。

「これが──」

 震え声が、乾いた唇から零れ落ちる。

「────勇者」

 

 

 

 

    1

「オズワルド!」
 ノックも無しに慌しく書斎に乱入してきた少女は、開口一番に部屋の主の名を呼び捨てた。
 薄暗く埃っぽいその空間は、書斎というよりも「本の墓場」とでも呼ぶべきで、壁一面に作りつけられた本棚に入りきらなかった書籍が山となり、幾重幾層に積み上げられている。
『誰かと思えば。久しぶりだな、アーニャ姫』
 少女に答えたのは、目当ての人物では無く、ドアの傍に佇んでいた一人の女性であった。
 黒のワンピースドレスにエプロン。そして、特徴的なヘッドドレスが、彼女の職業をそのまま物語っている。家政婦、あるいはメイドだ。
 彼女はヒトガタではあるが、人ではない。魔造擬人と名付けられた、魔術による産物である。一見すれば彼女の美貌が、人形や彫刻のそれと同じであることが分かるだろう。彼女の指は関節が剥き出しの状態だし、ドレスの下の胴体は、堅く冷たい陶製だ。「下級精霊に仮想人格を刷り込み、人形などに憑依させた」存在であり、人間に仕える為に必要な最低限の知識のみが植えつけられ、人格や感情は持ち合わない。
「久しぶりですわ、メグ。お元気そうで何より」
 しゃべるとは言え、感情の無い魔造擬人は人形と大差ない存在だ。彼女達と会話するのは、極端に言えば壁に向かって語りかけるようなものである。
 しかし、このメグという魔造擬人は、どういう仕組みなのか、並の魔造擬人とは一線を画しているようである。感情の起伏が見受けられ、発する言葉にも仮想人格とは思えない知性とユーモアが込められている。そして、一番彼女を規格外たらしめているのは──。
『しかし一国の姫君が声を荒げながら、扉を蹴り開けるなんて、ちょっとお転婆が過ぎないか? そもそも、このドアを誰が修理すると思ってるんだ?』
「……う、も、申し訳ありません……」
 表情こそ能面のままであるが、声に載せられた得体の知れない迫力に、少女は頬を引き攣らせて謝った。一国の王女に──このガラティア国王女アナスタシア・グレン・ガラティアに頭を下げさせる魔造擬人など、この世に彼女以外存在し得ないだろう。
 この魔造擬人が、この館に現われてもう二年になるだろうか。王女と言う身分を持って、当初は高圧的に接していたものの、あっという間に立場を逆転され、いまでは敬称どころか愛称で呼ばれてしまっている。
『分かればいいんだ。ああ、オズワルドならそこで干からびているから、好きにしてくれて構わない』
 メグは満足げに頷くと、「少し目を離しただけでこんなに散らかして……」と愚痴を垂れながら、本棚を整理し始めた。人間に仕えることこそが使命である魔造擬人にあるまじき発言である。
 メグの矛先が自分から外れたことにほっと胸を撫で下ろしつつ、アナスタシアは視線を部屋の奥へと向けた。
 揺らめく仄かな魔力の灯りに、一際大きな本の山が照らされている。今や積み上げられた本と一体化してしまっているその机こそが、この書斎の主の定位置である。
 床に散らばっている本の間から顔を覗かせている絨毯を選びつつ、アナスタシアは歩を進めていく。こういう時に、王族の煌びやかな衣装という物は非常に鬱陶しい。
 回り込むように近づいていくと、果たして一人の男が机に突っ伏していた。手に愛用の大黒鷲の羽根ペンを握ったまま、微動だにしない。
 「好きにしろ」と言われていたので、アナスタシアは手近な重厚な造りの辞書を手に取ると、無造作に男の後頭部に振り下ろした。
「ぼみゃ」
 奇妙な鳴き声らしき悲鳴を男が上げる。両腕を突っ張らせて痙攣するが、ぱたりと静かに動かなくなった。ならば、もう一撃とアナスタシアが振り下ろした本の背表紙は、はしと掲げられた男の腕に受け止められた。
「……ごきげんよう、オズワルド。お目覚めになりまして?」
「……メグといい、僕の周りには優しく起こしてくれる女性はいないのか……?」
 したたかに打ち付けられた後頭部と鼻を痛そうに押さえつつ、男は焦点の定まらない半眼をアナスタシアに向けた。
 二十台半ばの、いかにもうだつの上がらないといった痩せ気味の男であった。外さずにいた為に少し歪んでしまった眼鏡の下に、酷いクマが浮いている。また、何日もまともに寝ずにおいて、限界を達したところで気絶してしまったに違いない。
「……起こしてくれてありがとう、アーニャ。いや、実はまた締め切りがやばくてね。どうも意識が飛んでたみたいだ」
「懲りませんわね、貴方も。計画性やら学習力やらありませんの?」
 憮然としたアーニャの苦言に、男は「いやぁ」と口元に苦笑いを浮かべる。
「こればっかりはねぇ。毎回最初は道筋を立てるんだけど、見事に序盤で崩壊するんだよ。なら、最初から立てるだけ無駄だろう?」
「……担当の方が聞いたらきっと激怒しますわよ?」
「とっくに諦められてる気がするねぇ」
 髪をわしわしと掻きながら笑う男に、アナスタシアは小さく溜息を吐いた。
 彼は──この一見冴えない男であるオズワルド・ミューズは、かつて、ガラティア国髄一と讃えられた魔術の天才であった。魔術の発展により、今や風火水土に代表する精霊の力を借りた魔術は、戦闘にのみならず国民の生活基盤に深く根付いている。その魔術大国であるガラティア国において、魔術の権威となればそれは王に準ずる地位だと言って過言ではない。
 その功績と頭脳を買われ、彼は研究の合間にアナスタシア王女の家庭教師役に任命されていた。彼とアナスタシアはその時からの付き合いだ。オズワルドが王城を退いた後も、アナスタシアはお忍びで彼の元に訪れ、ひっそりと関係は続いている。
 約束された魔術士としての将来を捨て、何をするのかと思えば、オズワルドが始めたのは──。
「執筆は……どうやら捗ってはいないようですわね」
「一応のメドはついてるんだよ、だからちょっと気が緩んで寝ちゃったみたいだ」
 オズワルドの手の下に広がる紙には、びっしりと丁寧な文字が並んでいる。彼が身を削りながら書き連ねた成果なのだろう。
 天才故の道楽か、はたまた酔狂の末か。
 オズワルドが始めたのは、娯楽小説の作家業であった。それを知った時、アナスタシアは何の冗談かと耳を疑ったほどだ。
 彼はまず研究職時代の私財を投入して、魔術を利用した出版連盟を創立させた。今まで本と言えば、その量産の難しさから、歴史書や魔術書など用途の限られた高級品であった。
 しかしながら、オズワルドは紙の生産から、印刷にまで持ち前の魔術技術を投入し、安定した工程を確立させた。そうやって、書籍自体も庶民の手にも届く様になり、趣味の一つに数えられるようになった。そう地盤をしっかりと固めた後に、彼は自分の作品を次々と世に送り出していったのだ。
 彼の作品は、英雄が怪物を倒し、世界の危機を救う、とそれだけみれば月並みな英雄譚であった。しかし、彼を押しも押されぬ人気作家とならしめたのは、その英雄の斬新な設定であった。
 英雄と言えば、過去に武勲を挙げた王を始めとする貴族や、騎士、魔術士と言った輩が定番だったが、彼が描いたのはいわゆる異世界から訪れた「勇者」の物語だった。
 この異世界というものを、オズワルドは単純に「この世界とは壁一枚隔てて確かに存在する、しかし重なり合うことの無い世界」と表現しているが、その世界から召喚された戦士を、彼は「勇者」だと命名した。
 作中の世界で、魔人は人類を圧倒的な力で駆逐していくが、「勇者」はその軍勢にこの世ならざる力で立ち向かっていく。
 時に傷つき、倒れながらも、仲間と共に成長していく姿は反響に反響を呼んだ。小説は舞台化されるほどに人気を博し、こうして彼は、魔術の大家、出版の父、そして天才作家とまた一つ肩書きを増やしたのである。天は二物も三物も与えるときは気前が良い様である。
 いわゆる勇者の物語は、既に快哉を持って終幕を迎えたが、オズワルドは意欲的にその後も小説を書き続けている。ただ、何故か今度は英雄譚ではなく、肌が粟立つような気障な台詞が飛び交う男女の恋愛模様を描いた小説なのだが……。これも、それなりに好評なようである。
「でも、突然どうしたんだ? 悪いけど、君を満足させるほど続きは書けてないんだけど」 その続きが、机の下の原稿に違いない。読者の一人であるアナスタシアは、良く無理を言って出版前の生原稿をオズワルドから奪い取って先読みをしてしまうのだが、今日は流石にそんな事を言っている場合では無かった。
「用事はそんな事ではありません。……実は、貴方に相談したいことがありまして……」
 首を横に振ってから、アナスタシアはオズワルドを見つめながら黙り込んだ。
「? アーニャ?」
「……私も何と言ったらいいか分からないのですが、貴方に父を止めて貰いたいのです」
 意を決したように、彼女は口を開いた。オズワルドは怪訝そうに眉を顰め、
「ガラティア王を? 僕が?」
「その……。父が貴方の小説を読んでからというもの、現実に『勇者』を召喚する、と聞かなくて……」
 そうアナスタシアが告げると、オズワルドは口をぽかんと開けたまま硬直した。ばさばさという物物しい音に振り返ると、メグが抱えていた本を全て床にひっくり返していた。慌てて拾い直しているが、その腕が小さく震えている。魔造擬人にすら笑われてしまっているではないか。
「……アーニャ、悪いんだけど……」
「ご、誤解しないで下さる!? 私はちゃんとあの話が創作だということは分かっていますから!」
 何とも言えない苦笑を浮かべるオズワルドに、アナスタシアは慌てて食ってかかった。
「しかし、どれだけ諭しても父上が耳を貸して下さらないのです! 先日、遂に『勇者召喚』の儀を極秘に魔術協会に厳命し、騎士達もその任にあてがわれているのです!」
「…………うーん」
 困ったというように、オズワルドが頬を掻く。
「いやね、実は昔のつてから、魔術協会や騎士団の妙な動きは耳に入ってたんだよ。僕は隣のゴードラン辺りと戦争でもするんじゃないかと、冷や冷やしてたんだけど……。まさか、そんな理由とはね……」
「他人事じゃありませんわよ! 貴方があんな小説書くのが悪いんですわ! 責任持って何とかしなさい!」
「……そんな責任取らされるとは、夢にも思わなかったなぁ──なぁ、メグ」
 アナスタシアの理不尽な要求を聞き流しながら、オズワルドは本棚の整理を再開していたメイドに声をかけた。
『……何だ、オズワルド』
「悪いけど、お茶を淹れてくれないか。どうも、じっくり話を聞かなくちゃいけないみたいだ」
『分かった。ついでに昼食も用意しておくから、その間にいい加減風呂に入れ。見苦しいぞ』
「はいはい。アーニャ、時間は大丈夫かい? 悪いけど応接室で待ってて貰えないか?」
「……分かりましたわ」
 水を差されて、不承不承ながらアナスタシアは頷いた。オズワルドは、大きく背伸びをしてから、椅子を立ち上がった。
「じゃあ行こう。面白い話なら小説のネタになりそうだ」
 疲れからか表情は冴えないが、オズワルドの声はどこか楽しそうであった。

********************

『どうする、アーニャ姫。良ければ、姫も食べて行くか?』
 アナスタシアが通された応接室で手持ち無沙汰に暇を持て余していると、メグが両手にトレイを携えて、部屋に入って来た。
 片手にはポットと二組の茶器を、もう片方には作り立てらしい料理が緩やかに湯気を立てている。
「何ですの、その黄色い塊は」
 テーブルに並べられた皿の上に鎮座する奇妙な物体にアナスタシアは首を傾げた。
『混ぜた卵を薄く延ばして、焼きながら巻いただけの、いわゆる「卵焼き」なんだがな。見た事もないか?』
「そうですわね、茹でた卵は良く食べますけど……」
『そうか。私の故郷では一般的な食べ方なんだがな。オズワルドが気に入ってくれたので、良く作っている』
「……そうですの」
 魔造擬人に故郷も何もないだろうと思いつつ、アナスタシアは適当に相槌を打った。メグが淹れた紅茶は、王城で口にする高級品に引けを取らぬ芳しさだった。この底知れないメイドは苦手であったが、その家事の手腕に対しては彼女も一目置いていた。
『しかし、妙なことになっているようだな』
 テーブルを挟んで、アナスタシアの斜向かいに腰を下ろしながら、メグが呟いた。その手には、奇妙な意匠を凝らした黄金の器が握られている。彼女はポッドから自ら紅茶をその器に注ぎ、一気に呷(あお)った。
 魔造擬人も、活動するには一定の動力源が必要である。製作時に契約した精霊に準ずる魔力で充填される訳だが、メグの場合はそれが水の精霊によるものであるらしかった。水を飲めば良いだけなのだから、動力は無限に補償されているのと同じだ。
『「勇者」を召喚か……。まさか、オズワルド以外に、そんな酔狂な奴が現われるとはな』
「……私も信じたくはありませんわ」
 父王の正気とは信じがたい言動に、アナスタシアは重く溜息をついた。
 「勇者の物語」は、全てが創作、という訳ではない。魔術に深遠な造型を誇る著者の力によって、作中に登場する魔術はほぼ、現存する魔術に即した理論が用いられている。
 しかし、オズワルドの書いた小説は、あくまで架空の物語である。確かに、この世界は魔術によって運営され、大抵の問題は魔術によって解決が可能だ。しかし、異世界から「勇者」を召喚する魔術など、存在する訳が無いのだ。そんな物を本気で信じれば「夢と現実の区別も付かない愚か者」であると馬鹿にされるのが精々だ。
 だが、国家の最高権力者である王が相手ならば、事態は一転する。王が白だと宣言すれば、例え黒でも白であると従わねばならないのが、臣下と民の義務だ。「勇者召喚」は国家を挙げての祭事となるだろう。
『しかし、そう心配することはないだろう。あいつは今でこそみすぼらしく汚らしいが、頼りにはなる男だ。普段役に立たない分、貴女の為に知恵を貸してくれるだろう』
「──全く酷い言い草だな、一応ご主人に対して……」
 ぼやきながら、開きっぱなしだった扉からオズワルドが姿を現した。湿ったままの髪から湯気を立上らせ、幾分リフレッシュ出来たのかすっきりした様子である。
『何度言えば分かるんだ、オズワルド。しっかり髪を乾かせ、はげるぞ』
「……分かってるよ」
 手近にあった布で軽く頭を拭うと、オズワルドはテーブルの上の『卵焼き』に手を伸ばした。
「改めて一応確認するけど、国王は本気なんだね?」
「ええ」
「しかも、話からすると、僕の小説を参考にして召喚の儀式を?」
「……はい」
 アナスタシアが頷くのを見て、オズワルドはやれやれと天を仰いだ。
「君の父上には勿論会った事はあるけど、そんな血迷うような方だとは思わなかったけどなぁ……」
「その通りです! あんな事をなさるなんて、私もとても信じられなくて……」
「魔術協会と騎士団を動かしてるって言ってたけど。魔術協会は何となく分かるとして、騎士団には何をさせてるかは、分かるかい?」
「いえ、私にも計画の内容は伏せられていますので……。しかし、国内で腕利きの剣士や冒険家を雇って、遠征の準備をさせているのを見ると、恐らくは……」
「あー。魔術触媒の確保かぁー」
 こめかみを押さえつつ、オズワルドが呻いた。
 オズワルドの小説は、召喚術を行使した召喚術者の視点で物語が描かれていた。召喚者が勇者が召喚するまでの工程も、微に入り記述されている。
 異世界から勇者を召喚する魔術技法。突拍子も無いその儀式は、捧げる必要な生け贄もとんでも無い代物ばかりであった。
 灼熱の火の山に棲まう黒竜の牙、氷の大地の支配者である聖獣の皮。霧深き密林にそそり立つ世界樹の果実。音よりも速く天を裂き飛翔する妖鳥の風切り羽。大河を成すほどの血を受けた邪法の杯(さかずき)。
 どれも世界の至宝と呼ぶべき、魔術触媒であるが、この場合厄介なのは、どれも現存していることである。
 勇者召喚自体は架空の儀式だが、それに使用した魔術触媒は現実世界でも伝承で語り継がれている。どの魔術触媒も入手は困難極まりないが、存在する以上入手の可能性はゼロでは無い。しかしながら、その魔術触媒の収拾は成否に関わらず国家を傾けかねない規模になってしまうだろう。
「適当に作った設定だったのに、本気にされるとなぁ……」
 紅茶に砂糖を溶かしながら、オズワルドが一人ごちる。
「普通、あの触媒の条件見て召喚しようなんて思わないだろう? 僕が魔術の世界じゃ有名のは知ってたから、信じられたら困ると思ってわざとあそこは大げさに書いたんだ。誰かが間違っても真似しないようにね」
「父上の力を甘く見た、貴方の責任です」
「……そんな事言われてもね」
 力ない批難を飛ばすアナスタシアに、同じく脱力した様子でオズワルドが答える。
「しかし、どうしたものかな。アーニャの説得にも耳を貸さないとなると、僕が出向いた所で話になるかどうか」
『お前が書いた小説だろう。作者の話なら聴くだろう』
「そもそも僕は王城を飛び出した身だから、国王には嫌われているはずなんだよね。その割りに、僕の魔術の腕は未だに買ってくれてるみたいだけどさ。僕が出向けば、問答無用で捕まって協力を強制されるんじゃないかなぁ……。むしろ、今こうやって暢気に紅茶飲んでるのが信じられないよ。騎士が僕を拘束しに押し寄せても全く不思議じゃない」
『確かに、そうかもしれんな』
「……でも、このままでは困りますわ……」
 沈痛な面持ちでアナスタシアが俯いた。幼いながらも彼女も国政の一端を担う存在である。父王が悪政を敷くのを看過する訳にも行かない。
「だけど意外だな。国王が僕の小説を読んでたなんて。アーニャは読んでくれてるけど」
「付き合いで目を通しているだけですわ」
「それでも嬉しいよ。ありがとう」
 オズワルドから向けられた笑顔に、アナスタシアは頬を赤らめてそっぽを向いた。
「巷での評判を聞いて、私の所蔵から目を通したようです。その時は、随分衝撃を受けていたようですが……」
『──やはり、腑に落ちんな』
 メグが小さく呟いた。
『アーニャ姫、国王に他に奇妙な点は見受けられないか?』
「……奇妙な点とは?」
『普段取らない言動を取ったりはしないか、ということだ。私の経験上、地位のある人間が突如豹変した場合、たいてい取り憑かれて操られている可能性が高い』
「え……?」
 唐突なメグの意見に意表を突かれ、アナスタシアが目を見開いた。
『悪霊か、魔物か……。正体は定かではないが、頂点を傀儡と化し、国を乗っ取ろうとした化け物を私は何度か見たことがある、だから──』
「メグ」
 いつになく饒舌に語りかける魔造擬人を、オズワルドが小さく制止した。ハッと我に返った様子で、メグが口をつぐむ。
『いや……。そういう話をオズワルドから聞いた事があってな。もしかしたら、と思っただけだ』
「その可能性も無くは無いけどな」
 取り繕うようなメグの言葉を、オズワルドが引き継いだ。
「分かったよ、アーニャ。今からでも王城に行ってガラティア王にお目通り願おう。君の口添えがあれば、まさか門前払いということもないだろう」
 紅茶を飲み干して、オズワルドは立ち上がった。
「オズワルド……」
「徹夜明けの身には堪えるけど、可愛い元教え子の為だ。一肌脱がせてもらうよ」
「分かりました。表に馬車を待たせています。早速王城へ──」
『──いやいや、それには及ばんぞ』
 会話を割って、唐突に部屋に響き渡ったのは、メグの声であった。思わず、視線を向けたアナスタシアと彼女の視線が交差する。
『お初にお目にかかる、アナスタシア姫。そして召喚術士の末裔よ』
「なに……」
 慄然として、オズワルドが隣のメイドを睨み付けた。そしてその表情を垣間見て絶句する。
 無表情であった頬が歪み、三日月のように裂けた唇に邪悪な笑みが浮かんでいた。無機質だった宝石の瞳には、今やありありと悪意めいた意志の光が揺らめいている。
 途端、メグが自らの胸を掴み、床に倒れ伏せた。
『ぐ……、わ、私としたことが油断した……!』
「メグ!?」
『近づくな、オズワルド!』
 駆け寄ろうとするオズワルドを、苦しげに胸を押さえながらメグが制した。一瞬浮かんだ凶相が消え、元のメグの調子を取り戻しているようだ。
『やはり私の読みが正しかったようだ……!』
「……まさか」
『気を付けろ、オズワルド! こいつは……私の……!』
 そこまで叫んだ瞬間、糸の切れたマリオネットのように、メグの全身から力が抜けた。床に転がるその姿は、うち捨てられた人形のように惨めで痛々しく──。
『ふむ。まさか、仮想人格ごときにここまで抵抗されるとはな。余の魔力もだいぶ鈍ったか』
 次の瞬間には、何事も無かった立ち上がるメグの姿があった。呆然とするアナスタシアの手を取り、オズワルドは逃れるように変調を来たしたメイドから距離を取った。
「お、オズワルド、これは一体……!」
「──メグが乗っ取られた。何者かに仮想人格を書き換えられたみたいだ」
「え……」
『ご明察。オズワルドと言ったか、中々物分りが良いな。もし、私の正体に気付いているなら申してみよ。説明の手間が省けるのでな』
「……国王に取り憑いてた悪霊だろう」
『その回答では満点はやれんな。何より、余を呻きもがく魍魎なぞと同じ扱いとは、死罰に値する不遜だぞ?』
 怪しく血の色に輝く両眼が、オズワルドを射抜く。
「……あ、貴方が父上を!?」
『うむ、束の間身体を間借りさせてもらった。今は余の支配を抜けて伏しておる頃だろう。なに、案ずることは無い。魔力を貢物として頂戴しただけだ』
 全く悪びれもせず、メグが不敵に笑った。その姿はアナスタシアが知る、かつてのメイドではない。相手が王であろうが、歯牙にもかけぬその傲慢さは、まるで自らが世界の覇者であるかのようだ。
『分からぬのか、情け無い。今生(こんじょう)で余を誰よりも知るのは、貴様を置いて他にはおらぬだろうに──』
「──イリス、だろう?」
 額に険しく皺を寄せながら、オズワルドが口を開いた。その答えに、アナスタシアは耳を疑った。
「え……?」
『分かっておるのでは無いか。もったいぶりおって』
「…………」
「ちょ、ちょっと待ちなさい、オズワルド」
 睨み合う両者の会話に置いていかれ、アナスタシアはオズワルドの肩を揺らした。
「イリス、って、冗談でしょう!? 父上に無礼を働いた曲者なんですわよ! こんな時に貴方は……」
「事実なんだ、アーニャ」
 メグを睨み付けたまま、オズワルドはそう宣言した。
「そんな、だって……」
 確かに、イリスという超常の存在の名をアナスタシアも目にしたことがある。無論、オズワルドならば確かにその存在のことを誰よりも知っているだろう。
 何しろ「イリス」は、オズワルドが描いた物語に登場する魔人の王の名だ。幾度と無く勇者の前に立ち塞がった恐るべき宿敵の──。
 「事実なんだ」という、オズワルドの言葉を反芻する。それは、二つの意味を同時にアナスタシアに突き付けていた。
 一つは、目の前のメグの姿をした「何か」が魔人の王「イリス」である、ということ。
 そしてもう一つは。
 オズワルドが描いた小説も、「事実である」という意味を。

 

 

 

 

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